TOPICSINTERVIEW

文化人類学者・松村圭一郎に聞く、「我慢ってなんですか?」

「しかたない」と自分自身の欲望を断念すること━━我慢。

それは、生活の中で家族や友達、同僚との間に生じることもあれば、

社会や国家といった大きなものが私たちに強いることもある。

「我慢」から解放され、より良い社会を目指すためのヒントを、

文化人類学者の松村圭一郎さんに聞いてきました。

  • 本記事はフリーペーパー『#しかたなくない』では収録しきれなかったインタビューを再編集したものです。

松村圭一郎/まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『これからの大学』(春秋社)、『はみだしの人類学』(NHK出版)、『くらしのアナキズム』(ミシマ社)などがある。

なぜ“我慢”は生まれるの?

―私たちは我慢をなぜ私たちは我慢をしてしまうのか、という話からお伺いできますか? 

 

松村圭一郎(以下、M):我慢とは、“欲望の断念”と言い換えることができます。私たち人間は普段からなんらかの欲望を抱えながらも、それがそのまま実現できるということはほぼありません

 

私たちは基本的に他者の相容れない欲望とともに生きています。また生きていく上で、自分の欲望を抑えたり、他者と調整・交渉してきました。さらに「他者がどう思うのか」「自分がこうしたら他者は嫌かもしれない」となんとなく気持ちを先回りしてしまい、結果的に我慢する選択をしてしまうことも多くあると思います。

 

―なるほど、たしかに会社でも学校でも忖度してしまい、それが我慢につながっている気がします。松村さんが研究している文化人類学の観点から、我慢をしないコミュニケーションとして挙げられる例はありますか?

 

M:エチオピア南部の国境地帯に暮らす牧畜民“ダサネッチ”の研究をされている佐川徹さんなども書かれていますが、この地域の牧畜民は、なんでも「くれくれ」と言うんですよ。それに対して、「あげたくない」とか、「今はあげられない」ということを言う。私が抱える事情とあなたが抱える事情を、徹底的に話し合うんです。このように、とりあえず自分の欲望を開示しながら交渉することをコミュニケーションのベースにしている人たちもいます。

 

―欲望を開示することで、我慢はしなくていいものになりますか?

 

M:ダサネッチも我慢はしているかもしれないけど、欲望を声に出すことは我慢していない。我慢を自分の中に留めるのか、我慢していることを伝えるか、という大きな違いがあると思います。​​私が調査しているエチオピアの農村部でもそうですが、一見、仲が悪く見えるんです(笑)。行くたびに兄弟ゲンカやご近所トラブルを目にします。

 

しかし、揉め事だらけに見えるのは、それぞれの問題をちゃんと吐き出して表沙汰にしている証拠でもあります。他者とともに生きていくには我慢せざるを得ないことはもちろんある。でも、そこをちゃんと表沙汰にすることで、物事は対処可能なものになる。可視化されてはじめてわかることもたくさんあると思います。

 

―一方で日本人は、表沙汰にしないまま双方がなんとなく我慢してしまうというコミュニケーションの取り方をしているように思います。

 

M:日本人が固有のコミュニケーションの取り方をしてきたとあまり思わないほうがいいです。日本の中でも地域によって違うし、時代によっても違う。「日本人ってこういう人たちだよね」という思い込みは危険です。その思い込みが自分たちを縛ってしまうことにもなるので。

 

―たしかに、つい「日本人」とカテゴライズしてしまいますが、地域や、時代によっても違いますよね。

 

M:ただ、おっしゃるように、物事を表面化させたくない人が多くいるのも事実だと思います。「忖度(そんたく)」という話もありましたが、なぜそういうコミュニケーションをとってしまうのかは個々人でも考えるべきでしょう。

その“我慢”は誰のせい?

―自分と他者という双方間だけでは我慢の構造はシンプルですが、それ以外に我慢を強いられる要因は何が考えられますか?

 

M:そこに出てくるもう一つのファクターが、「国家」のようなもの。私でもあなたでもない誰かが、人々の欲望を統制しようとしている。これは日本だけでなく西洋でもどこでもそうです。わかりやすい例でいうと「異性と結婚しなくてはいけない」「子どもはこういうふるまいをするべき」「男は/女はこうあるべき」などの規範を、国家や宗教など第三者に押し付けられ、なんとなくその規範が浸透していくことがあります。それがいつの間にか人々の中に主体化・内面化して、自然と欲望のあり方をコントロールしてしまう。しかもその場合、自分が我慢していることにすら気づけていない人もいると思います。

 

―「一般常識」や「当たり前」という言葉で、潜在的に押し付けられていることに対して、人々は我慢している意識がないということですね。

 

M:私たちは小学校の頃から「人の話は黙って聞きなさい」「人に迷惑をかけてはいけません」など、いろんな決まりごとに縛られてきました。ほかにも、たとえば「男の子のランドセルはこういう色でなければならない」と押し付けられた価値観を、自分の好みとして思い込んでしまっている人すらいるかもしれません。そのように、私たちの周りからじわじわと内面に浸透してくるような「ある種の権力」により、いつの間にか我慢を強いられることもあります。

 

―結婚の例も挙がりましたが、たしかに選択的夫婦別姓や同性婚を認めないことなど、現行の婚姻制度にも疑問を感じることがあります。

 

M:結婚は本来、プライベートなことですよね。両者の合意に基づくものであれば、いちいち国家に何かを言われる筋合いはないものです。それに、日本ではかつて結婚は神に誓うものではなかったわけで。昔は家族や周りの人間が認めれば結婚したことになっていました。それが明治以降、戸籍制度ができたことで、結婚制度は異性間だけのもので、結婚できる年齢も決まり、それが正しいとされるようになった。そのことで我慢を強いられている方がたくさんいますよね。

 

―そういった国家や社会が強いてくることに我慢していると気づいたとき、それを乗り越える方法はありますか?

 

M:仲間が必要だと思います。たとえば、会社の労働環境について違和感を持ったら「うちの会社変だよね?」と共有できる相手がいるだけで救われます。もしかしたら今までは、自分の体調が悪くなるのは自分の能力が低いせいかもしれないと思っていたかもしれません。でも、ポロっと隣の人に「おかしいよね」と言ったときに「実は私もそう思っていた」とリアクションが返ってくるかもしれない。すると、今まで感じていた問題は「私の責任」ではなくなり、一人で対処すべきことでもない共通の問題へと変わります。それは「会社の責任」であり「社会の責任」かもしれないと気づくことができます。

 

まずは自分の意見を表明してみる。自分がどういう思いを持っているか、そもそも自分自身でもわかっていないことが多いです。それを言葉にする、あるいは誰かに話してみるという作業は、自分の思いを再確認する意味でも必要なステップだと思います。

“我慢”を仲間に打ち明けるには?

―自分の意見を主張することが苦手な人はどうしたらいいでしょうか?

 

M:“主張”というと身構えてしまうかもしれないから、単なる“雑談”だと思えばいいんじゃないんですか。私が教えいている大学でも、2021年10月頃から、やっと対面授業が一部再開されてきたのですが、私はある演習でのキーワードを「おしゃべり」にしました。今、生徒たちにとって必要なのはおしゃべりの時間です。学食でも黙食と書いてあって、「みんな黙って食べてください」「壁を向いて食べてください」と言われています。大学というのは、“いろいろな対話が生まれる場所”という社会的な意義があるのに、そういう場を奪われるのがすごく心苦しいと思い、できるだけグループディスカッションみたいな時間を長めにとっています。おしゃべり、いいんですよね。

 

―大人になって効率主義の人と仕事をしていると、おしゃべりを省かれる瞬間がよくあるということを思い出しました。おしゃべりというのが貴重なものであったというのは、たしかにコロナ禍になってから改めて感じることでもあります。

 

M:効率性や生産性って、労働者の我慢と忍耐に依存していますよね。オンラインになって気づくのは、立ち話がなくなることの弊害です。メールで伝えるほどのことでもないことが、実は仕事のきっかけになったりしていたなと感じます。休憩時間のちょっとした立ち話や、飲みに行ったりご飯に行ったりしていたときの会話に、仕事をうまくまわすための重要な部分があったと気付かされます。

 

―学生たちを見ていて、我慢していると感じることはありますか?

 

M:学生を見てると、みんなが我慢をしているように感じます。話をしたそうな顔しているのに手を挙げないし、感情表現も我慢している人は顔にも出ない。これは、今まで学生たちが教育を受けてきた中で、教室が「間違ったことを言うとバカにされる」場所だった証拠です。どんな意見が言われても承認されて、受け入れられる場所であれば、人は言いたいことがいっぱい言えるはず。だからこそ、不満や我慢していることを言い合えるような関係を、他者と普段から築いておくことが大事です。

 

―意思表明が苦手な若者が多いという話も聞きますが、そのことも我慢してきた結果なのかもしれないですね。

 

M:日頃から意思表明させてもらえていないことも理由にあると思います。意思表明とは「私はこう思う」「私はこういうものが好き/嫌い」とざっくばらんに言うことです。たとえば自己表現を禁じられた人たちが選挙前にだけ「選挙に行きましょう」と言われても、ピンとこない。まず、自分の意思に気づけていない人が、求める政治家や政党を選べるはずもない。表現することをやってこなかったツケが、人々を思考停止の状態にしてきたと思います。

 

―むしろ投票日よりも、投票以外の日々の方が本番であり、重要ですよね。自分たちの暮らしと政治が地続きであることを理解しながら、自分の考えを持つ必要があるように思います。

 

M:拙著『くらしのアナキズム』にも書きましたが、当たり前に政治談義みたいなものがあった時代が随分遠くなったと感じます。20年くらい前は関西で電車に乗っていたら、結構おじさんたちがまわりに聞こえるような声で政治的な話をよくしていたものです。意見はもちろん一致する必要なく、それについておしゃべりができる機会があったことが大切なんですが、今はそんな光景はなかなか見ませんよね。

―一方でネット上では政治的主張が対立して、罵詈雑言が飛び交っているような現状もありますね。

 

M:ネット上のコミュニケーションが罵詈雑言になるのは、自分の主張を押し通すか、相手の主張を受け入れるかしかない白か黒かという状態で、まったく意見が交わらないから。むしろ溝を作るために発言しているように感じます。

 

―政治的な立場を表明してはいるかもしれないけれど、双方で対話にはなっていないですよね。「論破」みたいな言葉が流行しているのを見ても、対話が失われていると感じます。

 

M:そうです。でも、これが対面のおしゃべりの場だったらどうでしょうか。おしゃべりを続けるためには、なにかその会話を続けるためのルートを開いていかないといけないですよね。「ここはそう思うかもしれないけど、これはどう?」「そこは認めるけど、これはどう思う?」と調整や交渉が生まれるんです。おしゃべりや対話を続けるためには、相手に寄り添いながら話していく必要があります。自分とは相容れない他者の欲望をふまえながら話を続けていく。対面でのおしゃべりでは、そんなコミュニケーションが自然に生まれます。すべての主張に言えることですが、100%自分が正しい、お前は間違っているとなると、話が続かない。たぶん、「論破」みたいな言葉が使われる背景には、ぼくらがこういう雑談だったり、おしゃべりが下手になってきたことも関係しているかもしれません。

クッションになるような人を間に入れながら話を進めるというのひとつの手です。ちなみにエチオピアの村では、もめごとが起きると物知りのおじいちゃんなど第三者を連れてきて話すというケースも多いです。

 

―さきほど「仲間が必要」というお話がありましたが、気軽な話ができる関係性をつくっておくことがやはり大事になってくるということですね。

 

M:その際はコミュニティや組織のようにメンバーシップがはっきりしているような関係ではなく、もっとゆるやかに茶飲み話ができるような間柄のほうがいいかもしれません。人のつながりは、時に人を縛る鎖になってしまいます。自分の思いを共有して分かち合うよき関係が、ある瞬間から自分自身を縛る可能性も出てくる。きっと、ゆるいつながりを増やしておくといいのだと思います。

 

『くらしのアナキズム』
松村圭一郎/著
国家無き社会は絶望ではない━━文化人類学の視点で国家とは何か?を問い、分析した一冊。様々な民族の暮らしや、過去の文献を通して、例え無政府状態になったとしても、私たち自分たちの手で公共を作り出すことができることを論じる。ミシマ社/1980

Text /Daisuke Watanuki

Edit /Eisuke Onda

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