TOPICSINTERVIEW

詩人・文月悠光に聞く、「我慢をどうやって言葉にするの?」

欲望や願望は口に出さないと、誰かに伝わらない。

だけど、良いことも悪いことも、さまざまな価値観が溢れている今日、わたしたちはどのように言葉と向き合っていけば良いのか? 2021年9月、『現代詩手帖』に掲載された文月悠光さんの「パラレルワールドのようなもの」は、我慢を強いられてきた私たちの苦しみを言葉にしたものだった。あらためて、詩人の文月悠光さんに本詩を取り巻く、我慢と言葉について問いかけた。

  • 本記事はフリーペーパー『#しかたなくない』では収録しきれなかったインタビューを再編集したものです。

文月悠光/ふづき・ゆみ

詩人。1991年、北海道生まれ。詩集に『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫、中原中也賞受賞)、『屋根よりも深々と』(思潮社)、『わたしたちの猫』(ナナロク社)。エッセイ集に『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)、『臆病な詩人、街へ出る。』(新潮文庫)がある。詩を原案とした映画『片袖の魚』(主演:イシヅカユウ、監督:東海林毅)が各地で公開中。

プロフィール写真は山本春花が撮影。

詩の中ならできる、強い言葉

  • 写真は左から文月さんの第一詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)、エッセイ集『臆病な詩人、街へ出る。』(新潮文庫)、第三詩集『わたしたちの猫』(ナナロク社)、文月さんが寄稿している雑誌『現代詩手帖』の2021年9月号。

─「我慢」という言葉を聞いて、文月さんはどのようなことを思い浮かべられますか?

 

文月悠光(以下、F):「我慢」は、主観で使うべき言葉ですよね。「あの人たち、我慢してるね」と、第三者視点で使うことには違和感を感じます。同じ類の言葉だと、「毒親」や「親ガチャ」も第三者が簡単に使っていい言葉ではない。この言葉は当事者の気持ちを楽にするためのものであって、「あなたの親って毒親だよね」「あなたのところは親ガチャ失敗だよね」と他人が使ってはいけないと思っています。

 

言葉がメディアでひとり歩きして、流行り言葉のように安易に使われてしまうことが度々あります。ただ、今は変な使い方をされているとSNSで指摘されて、言葉が淘汰されていくこともよくあります。指摘されることを恐れて、思うように言葉を使えないという苦しみを感じている個人の方もいると思います。

 

─文月さんが作品を発表される「現代詩」という場所ですと、そういったSNSで指摘される状況で言葉を発信する恐れみたいなものはどう感じられていますか? 

 

F:現代詩は個人の作品として読んでもらえるので、守られている感じがあります。その中でも、限られた人しか読まない詩の雑誌というのは安全地帯そのもので、受け止めてもらえるという安心感がある。だから、今の時代に伝えたいことを書ききる覚悟で、強い言葉も恐れず使っています。同じことをツイートできるかと聞かれたら、できないかもしれませんね。

 

私が思う「良い現代詩の作品」というのは、読んだ方それぞれが自身の境遇と重ねて、一緒に並走していけるもの。フィクションの力によって、体験していないことや自分の中になかった考えも、自分ごととして内側に入ってくると思うんです。そうした時に心の中が刺激されて、それが怒りとなって表出する方もいれば寂しさになる人もいる。感じ方は自由でいいので、何かしら受け手に響くものを書きたいというのが、私の作品づくりの原動力です。響く内容は表現の形式によっても異なります。なので、現代詩で書けることと、エッセイで書けること、SNSで発信できることは自然と違ってきます。

 

個人の声に耳を傾けて、我慢を記録する

  • 『現代詩手帖』の2021年9月号に発表した文月さんの作品「パラレルワールドのようなもの」。詩の全文は文月さんのnoteで公開中。https://note.com/fuzukiyumi/n/n20b5ac20b21b

─文月さんが2021年、『現代詩手帖』9月号に発表された作品「パラレルワールドのようなもの」は、コロナ禍で我慢を強いられてきた私たちの叫び声のようなものが詰まっていると感じました。抗うことを認めない社会にいつの間にか私たちは巻き込まれて、個人の声や思いをかき消されていたんだと気付き、ハッとさせられました。「パラレルワールドのようなもの」は、どのような思いで書かれたのでしょうか?

 

F:作品を書いたのは、昨年の東京2020夏季オリンピック大会の開催直前。当時は、社会全体が混沌としていて、ニュースの見出しやTwitterのトレンドなどに触発されることが多くありました。五輪大会中、IOC(国際オリンピック委員会)の広報官が、東京でコロナ感染が急拡大していることについて「パラレルワールドのようなもの」と、東京の状況と五輪が無関係であるかのように発言しました。その言葉に愕然としてしまって。

 

それがきっかけで「何か書きたい」と強く思いました。オリンピックを「祝祭」として祭り上げ、一致団結する感じの一方で、コロナによる重症者数や自宅療養者の数は日々最高記録を更新していました。その大きな落差の中で、私たちは一体どちらの現実を生きているのだろうかと、私自身ももともと混乱を感じていたんです。

 

─たしかに、テレビで映し出される華やかな状況と、SNSで流れてくるコロナの情報や医療現場の緊迫した状況に大きな差がありましたね。

 

F:その時に、Twitterで医療従事者のツイートだけをまとめたリストを個人的に作って、よく眺めていました。そこにはオリンピックのニュースの影に隠れた、医療現場の悲壮感漂う声が絶えず流れてくるんです。同時に大きなメディアのニュースも見ることで、私たちはオリンピックを笠に着て、考えるべき問題を放置したり埋め込んだりしている気がしました。その気持ち悪さや醜悪さが、IOCの発言をきっかけに爆発して、表現としてアプローチする思いに駆り立てられ「パラレルワールドのようなもの」が生まれました。

 

─個人の声に耳を澄ませていたことで、生まれた詩だったんですね。個人の声は、日頃から気にかけて追っているんですか?

 

F:個人の声も大きな声も、どちらも気にしますね。ライフワークとして、気になった新聞の見出しを切り取って、日記に貼っているんです。同じように、コロナ禍を物語っている個人ツイートも日記に書き留めていました。自分用の、日常的な日記の中に記録しておいた個人と大きなものの声が、この作品の礎になっています。

 

─周りの反響はいかがでしたか?

 

F:他の詩ではあまりないことなのですが、『現代詩手帖』の発売直後に、古い知人から電話をもらったりメールをいただいたりしました。ここまで瞬時に反応をいただくことは初めてのことで、それだけ響くものがあったのかなと。大きなものに巻き込まれそうな時こそ、個人の声が光るのだと思いました。

 

─しかし、世の中が混沌としていた時期に、ツイッターやニュースなどで現実を直視することは、非常に酷ではなかったのかと想像します。いつも以上に怒りや悲しみが湧き、自分自身も疲弊してしまいそうです。

 

F:差別や女性蔑視、そうしたニュースを日常的に見続けることはすごく気分が沈みます。見なくて済むなら、見たくないという気持ちも正直言うとあります(笑)。でも、物理的には立ち尽くしているんですけど、特にオリンピック期間の頃は必死に見ようとしていました。愕然とした気持ちを投げ捨ててしまわないように。コロナなんて正体がわからないし、脅威だと言われてもどう対処してよいかわからない。呆然と立ち尽くす自分に対する歯痒さが怒りとなって、社会に対する苛立ちがこの詩に表出したんだと思います。

 

私自身、普段は怒りっぽくもないですし、攻撃的な感じではないんですね。ですが、あの時期は明確に身体が違和感を感じていました。この抑圧や我慢を、記録しておかないといつの間にか忘れてしまうかもしれない、そんな不安もありながら書いたように記憶しています。我慢や生きづらさというのは言葉にすることが難しいけれど、詩やフィクションの世界では、そこから発生する怒りや悲しみが主役になるんだと思いました。

現実に起きた出来事を、読み上げてみる

  • 文月さんが作曲家・坂東祐大さんと発表したサウンド・インスタレーション『声の現場』の展示会場。

    撮影:髙橋健治 画像提供:Tokyo Arts and Space

─昨年末、文月さんは作曲家の坂東祐大さんと共にサウンド・インスタレーション『声の現場』を展示されました。文月さんがコロナ禍に綴られた日記をもとにしたテキストを6名が朗読し、声が多声音楽のように響き合うという不思議な空間。ここでも個人の言葉を記録し、極めて個人的な「声」で作品を創出されていました。この展示では、どのような思いで言葉を綴られたのでしょうか?

 

F:新聞やニュース記事の見出しを日記に集めている内に、現実に起きたことのはずなのに、後から読むと、まるでフィクションのように感じたんですね。たとえば物議を醸した「お肉券、お魚券」のことや、SNS上で牛乳で手作りする「蘇」が流行ったことなど。そこで、2020年の日記を私含む6名の女性に朗読してもらい、その音声を坂東さんにカットアップしてもらいました。文章を元々の文脈から切り離した結果、現実に起きた出来事を読み上げたものさえ、ディストピア小説の一場面のようになりました。虚実があいまいになっていくのが面白かった。シリアスな展示ではなく、ユーモラスなものを目指しました。今後も公演など、色んなバージョンの「声の現場」を発表することを考えています。

 

─詩や短歌は、言葉だけのシンプルさ故の難しさがある表現方法です。冒頭で「良い現代詩は、その人の人生と併走するもの」と仰っていましたが、そうしたものを読者の方に手渡すために文月さんは現代詩を書かれる際に、どのようなことを意識されていらっしゃいますか?

 

F:私ができることは、問いかけることだと思っています。答えは用意しなくていいんです。詩を書く方法は様々で、どういう風に詩をコーティングするかだけでもだいぶ印象が変わってきます。訴えかけるようにするか、軽い感じにするか、個人の思いをぶつけるか。私はなるべく、読んでくれる人に伝わりやすい形で手渡すことを意識しています。これは危惧している部分でもあるのですが、きれいな言葉や美しい言葉で書かれたものが詩であると、思われがちなんです。その感じ“だけ”でコーティングされた詩というのは、本当にきれいなのだろうか?と思います。

 

─側だけ整えられていても、本質的な部分できれいなのだろうか、と。

 

F:そうですね。先ほどもお話しましたが、怒りや悲しみ、血が流れたり、涙を流したり、公共の場においては「さらしてはいけない」とされるものが現代詩ではむしろ主役になる。ポジティブに思考することが良いことで、ネガティブな考えは悪と捉えられることが多いと感じていますが、無理やり前向きな気持ちに変換しなくていいのが、現代詩なんです。ここでは、ネガティブな感情を吐き出してもいいし、自分の中のドロドロとした汚い感情も見せてもいい。抑え込まれていた自分の心の中を現代詩なら表現していいんだ、というところに私自身も惹かれましたし、意識して書き始めたという経緯があります。しかし、「詩的」という言葉が持つイメージのように、詩は美しいモノであれという圧力が現代詩の中で強くなっている気がします。読む方にも書く方にも、そうじゃなくていいよと伝えたいですね。

 

─ネガティブな考えは悪とされ、ポジティブに考えることが処世術であり、褒められる考え方のように刷り込まれているかもしれません。

 

F:前向きに生きることが正義ではないと思うんです。夜に眠れなくなったり、涙が止まらなくなったり、そういう身体のエラーが出ていても会社に行かざるをえない方は多いと思います。休むことを選べなくて、苦しんでいる友人を見ると辛い気持ちになります。そこまで余裕がない状態で詩を読むことは難しいかもしれませんが、時間が経ってからでもいいので、詩で剥き出しの言葉に触れて、傷ついた読者の心を労ってあげられるようなものを書いていきたいです。

Text /Yoko Hasada

Photo/Shin Hamada

Edit /Eisuke Onda

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